DRPL化粧品発売までのストーリーVol.2

1997年の夏、1年半過ごしたチコの街から、乗用車も積んだ大きなトラックで10数時間もかけてアーバインへ大引っ越ししました。地元のメイフラワー引っ越し業者は、安全かつ丁寧であり、チコの人たちには最後まで大変親切にしていただきました。カリフォルニア州は日本がすっぽり入ってしまうほど大きいので、チコからサンフランシスコ、そこからアーバインまでと長い旅になりましたが、風光明媚な素敵な街に住めることに興奮していたことを覚えています。

隣街のアナハイムにはディズニーランドもあり、家から花火が見えていました。美しいヨットハーバーのあるニューポートビーチ、芸術の街ラグナビーチが隣接していて毎日が観光のようでした。

1年を通して気候が穏やかなカリフォルニアは、日本の季節の花が年中咲いているので華やかで気分を盛り上げてくれていました。子供たちは、Wood brige High schoolへと進み、厳しくも楽しい学校生活を送りました。アメリカは自由の国と言われていましたが、そこはやはり日本と同様、規則をしっかり守ってこその自由です。多感な時期を上手に乗り切ってくれた子供たちに心から感謝し、私は彼らを誇りに思っています。私はというと、生活を守りながらも子供たちのようには言葉が理解できず、楽しい思いと同じくらい苦労もありました。言葉が通じるはずの日本人によるカード詐欺や車詐欺にあいました。それは、あまりにも私が無防備で無知であったせいなのですが、今振り返ればこれらを解決する長い過程の中、アメリカのたくさんの方に助けてもらいながら、私自身も大きく成長することができたと思えます。そして、10代の子供たち、40代の私、3人がそれぞれ必死で生きなければならなかったこのアメリカ生活が私たちの精神の自立へとつながったと思います。

ドクターオバジとの出会い

ある日アーバインで美容室へ行った時、日本では言われたことのない言葉を聞かされました。「かわいそうに、あなたはこの頬のシミさえなければ綺麗な人なのに」と。私の右頬には大さじスプーンをひっくり返したような盛り上がったシミがありました。日本にいた頃、クリニックへ行きましたが、「産後半年以内に来ていたら取れる可能性があったが、既に数年経っているので難しい」と言われたので、諦めていると話したところ、最初にニューポートビーチのクリニックを紹介してくれました。しかし、そこでも同じことを言われ、すっかり落胆した私でした。次に美容師さんは、ロスの“ドクターオバジ”の話をしてくれたのです。ラッキーなことに“ドクターオバジ”を知っている人がいたこともあり、すぐに受診することができ、ビバリーヒルズにある立派なクリニックを訪ねました。右頬にあるシミをみていただき、他のドクターにレーザーで取れないシミと言われたことを話すと、ドクターオバジは「かわいそうなことしたね。取れないと言われさぞかし失望したことだろう」と。さらに「でも大丈夫この化粧品はあなたの期待に応えてくれるだろう」「ここにはブルーピーリングという施術もあるが、アジア人には強すぎる反応が出るので化粧品の方があなたに合うだろう」と、化粧品の使い方の説明を自らしてくださいました。

オバジ先生の患者に寄り添おうとしてくださる姿勢にもう一度だけトライしてみたいと思ったのです。しかしその日の夜、説明通りにスキンケアをしてベッドに入ったものの、私は夜中に突然起きて、塗布したクリームを洗い流してしまったのです。

だって化粧品でシミが取れるわけがないじゃない!

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