DRPL化粧品発売までのストーリーVol.1

アメリカへ11歳の娘と9歳の息子と旅立ったのは私が42歳の時でした。帰国子女として2、3年で戻ればいいと思っていたのに、結局10年のち娘も息子も残し私だけ日本に戻ることになるのですが…。私が学生ビザをとり(F1)子供達は家族ビザ(F2)で渡米しました。

アメリカの州都サクラメントから北にあるCHICO

1996年最初に暮らすことになったのはアメリカの州都サクラメントから北にあるCHICO町。カリフォルニア州立大学CHICO校のあるのどかな田舎町でした。結局そこに最初に行ったことが後で大変ラッキーだったと知ることになります。そこには1年半いたのですが子供達はスクールに日本人が一人もいなかったことで英語力が想像以上についたのです。1年後には町の教育委員会の人が訪ねてこられて1年で英語をマスターできたのはどういう教育をしているのかと聞かれましたが私は拙い英語でなんと言ったと思いますか?『 I don’t know.』だけでした。その時は本当にわからなかった。説明もできませんでした。娘はピアノを弾けることで一躍ポピュラーのグループに入りました。息子も最初の3者面談で大人し過ぎると言われましたが2回目の面談であまりにもお喋りするので口にチャックをつけてほしいと言われるくらい話せるようになっていました。私はかろうじて聞き取れる程度でしたが。

CHICOの街についてすぐにソーシャルセキュリティを得て半月後には車の免許も取りました。これが唯一わたしの自慢です。カリフォルニアパークと呼ばれる小高い丘の上の青い壁のひろい庭のある3LDKの一軒家で暮らし始めました。町の人たちはとても親切で私たちはゆっくりとアメリカ生活に馴染んでいきます。

CHICOでのエピソード

1年半でしたがこの町のことは語りつくせないほどエピソードがあります。ハロウィンにはフランケンシュタインがバイクにウエディングの女性をのせて走っていたり、ミツバチマーヤ姿の先生が出迎えてくれたり、町中の人が思い思いの姿でその日は普通に生活するのです。クリスマスにはストリートごとにイルミネーションを競います。翌日の新聞が評価をするので一番を見学するために毎晩観光に出かけました。

バスも飛行機もクリスマスには町中が装いで賑やかになります。この町を離れるとき同じストリートの住民の方がここがあなた達のアメリカの故郷になるのだから都会に疲れたら帰っておいでと。思い出すだけで懐かしくて涙が溢れます。皆さんありがとうございました。ここでネイティブアメリカンの家族と知り合い、山の中のこんなところに家あるの?と云いながら訪ねたところでBeautyOilを作ることになるきっかけに出逢います。そこに住んでいたグレーヘアーの女性の肌が大変綺麗でなにを使っているのですかと尋ねると家のまえの草木を指差しそれから取れるBeautyOilと言われたのです。それがなんの植物かは当時の私は理解できませんでした。

アーバインへ引っ越し

1年半後オレンジカウンティのアーバインに引っ越します。アーバインはロスから車で南へ1時間半ほどのところにありまたさらに1時間半ほどいけばサンディエゴにつきます。大都会ではないが美しい街、ここで子供達はジュニアハイからハイスクールを卒業し私たちは5年間暮らす事になります。

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