DRPL化粧品発売までのストーリーVol.6

ーアメリカンドリーム
最初に訪米した1996年ごろは野茂英雄さんが有名で、彼について話してほしいと言われて野球の知識もないので苦笑いしたものですが、内心は嬉しく感じていました。2023年には大谷翔平さんの活躍に〝凄いね″と賛辞を贈られ日本人として誇らしく思いました。野球以外でもアメリカで大活躍しておられるアジア人の方はたくさんいて、人種を超えてアメリカンドリームはあると感じています。

ドクターピュアラボ設立と介護

私の人生の中に化粧品会社を設立するというプランはなかったのですが、これは私が進めないと会社は違う方向になってしまうのではないか?この化粧品は店頭で一般売りするのではなく、私がドクターオバジから受けた丁寧な化粧品説明と使用方法の伝え方で効果が出るものだから「エステサロン・クリニック」という化粧品のプロの方達の手を通した方がお客様に化粧品の価値が伝わるのではないか?それには自分が社長にならなければならないのではないか?と日に日に考えるようになりました。
しかしとても自信がないという私に母が一言『やってみないと分からないし、しないで後悔するのはきついのよ』 『庭に黄梅を植えたから成功するから大丈夫。 万が一の場合、戻るところはあるから』 と言ってくれました。
そして紆余曲折の末、2009年7月株式会社ドクターピュアラボ設立。 私は代表取締役社長になりました。


輸入していた商品を辞めざるを得なくなったのはいくつかの理由がありますが最大の理由は成分が日本の薬務では許可がおりないものであったことと、ネットワークビジネスでは想いが伝わらないと感じたことでした。アメリカ側の弁護士からネットワークビジネスで進めなければ訴えると言われましたが幾つかの訴状内容にきちんと応えることが出来たことで取り下げられ、その後ドクターアングともお食事できる機会もありました。 社長という役割をよく理解していなかった私は波乱万丈の渦に巻き込まれたような毎日を送ることになります。

週末には母の元に帰り細い肩に縋り何度も泣きましたが〝なぜ泣くの″とは母は一度も聞かず、ひとしきり私が泣くと『もういい?』とだけ言って普段の母に戻るのでした。
介護と仕事、この繰り返しの毎日。 平日も度々3時間かけて母の元へ、翌日始発で大阪へ。 街の人の協力もありなんとかやり遂げられて私は逞しくなっていきました。


2012年に最愛の母が亡くなってからあの場所には悲しくて帰れず、黄梅が冬から春にかけて咲き誇っている様子を想像するだけになってしまいましたが。
2023年11月の15周年記念会に介護で参加できないと言われた先生が何人もおられて、身につまされる思いでした。

D R P Lシリーズ

D R P Lシリーズはドクターオバジ、ドクターアング、ドクターペリコーン、当時東大におられた吉本教授の肌再生から、独自の美肌理論を立ち上げることで完成していきます。そこには安田という頑固な化学者の30数年培ってきた英知と、創業明治の大阪の老舗、売り上げ数百億の化粧品製造関連会社と全くゼロのピュアラボとを結びつけなければならないという確固たる想いと、化粧品製造販売の許可を取り、何処にも真似できない美肌理論に基づいた化粧品作りをするという執念があったのです。
ある時期エステサロンでプラセンタのドリンクを取り扱っておられるという情報を聞いて『安田先生、サロンでプラセンタが注目浴びているようなので化粧品に入れましょう』というと、安田は『いいですよ、針の先でつついたぐらいなら入れてもいいですよ、プラセンタ入りと表示できますよ。でもそれに意味ありますか?第一プラセンタとは何から取れているか知っていますか?エビデンスがありますか? 処方を間違えれば成分も活かされるどころか壊れます。 成分は確固たるエビデンスのあるもの、処方は科学的に基づかないと安心・安全な化粧品は作れませんよ』 と言いました。 私はトレンドのように現れる成分に惑わされないようにと戒められました。
第二D R P Lシリーズの改革は安田、ビューティサイエンスの庭の岡部先生、製造工場の医学博士らによりドクターズコスメとしてさらに進化していきます。

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