DRPL化粧品発売までのストーリーVol.5

2023年クリスマスのオレゴンからHAPPY NEW YEARのL.A.へと素敵な胸キュンキュンの旅となりました。

またどこかで。

帰国

さて帰国するまでの日々40代の数々の問題はありましたが自由の中で確実に自立した私の確かな薔薇色時代があったからこそ50代で帰国し20年ぶりの社会への復帰がハードであったはずなのになんとか乗り切れたとのだと思う。ドクターオバジの化粧品は某有名薬品会社が日本で発売することになり私の手元から離れその後私はD R.アングの化粧品を日本に輸出していましたがその化粧品が日本に進出するというので日本での仕事を私にさせてもらえないかと社長に直談判したのです。会社からは彼女はこの化粧品のマインドを理解しているので任せてみようと言って頂き2007年4月から日本で輸入の仕事をすることになりました。子供達は大学生になっていたので私一人の帰国です。アメリカでは大学が近くにあろうとなかろうと高校卒業と同時に親元を離れて生活するというのがごく自然な形になっており私も親離れ子離れがスムーズに出来たように思います。2006年の末にアメリカを発ち2007年の元旦に日本に帰国しました。その後の3ヶ月の間にフランスに一人旅を決意。最高の旅をして4月を迎えました。新大阪の知人の会社の1室で机2つと化粧品保存庫を購入して52歳での社会復帰が始まりましたがPCもメールでしか使ったことはなく若い方に教えて貰わねばならず、何もかもが自尊心を無にしなければならないことの方が多い辛い日々の始まりでした。アメリカではネットワーク販売の商品だったのですが日本ではこの販売では難しいと気づき始め続ける自信はなくなり他の仕事を探したりもしましたが容易に見つかるはずも無く母の世話をしながら実家で暮らすことも考えました。しかし離婚もして一人で生きていくにはここにいては駄目、自分の居場所は自分で作りなさいと半ば追い出されるように週末は母のいるところに帰り、平日の朝は通勤ラッシュにまみれ、帰りは最終電車で通勤をしていました。アメリカでの自由で薔薇色の時から一転した生活に疲れてしまい、アメリカに残してきた子供達のことが気がかりで夜は眠れず私おかしくなるのかなと、しかし、心療内科に通ってみると、渡されるのはボーッとなってしまうお薬だけ。ある時私は娘に誰かの話をしているふりをして、心療内科の話や薬の話をしてみました。娘は『お母さんじゃなくて良かった。そんなことがもし母に起きていたら私はたまらない』と言ったのです。それから何かに頼るのは止めようと娘を悲しませたくないとはっきり決心をしました。

個人輸入

輸入に関してはK器材株式会社のH社長が引き受けてくださっていましたが日本の要望とアメリカの主張の食い違いからある時H社長から輸入は止めたいと連絡があり私はH社長を訪ねて思い直して頂けるようにこの化粧品で多くの悩みを持つ女性が救われること、私自身がこの化粧品で人生が変わったのでどうしても綺麗になりたい女性に届けたいのだと懇願しました。昔気質の社長はいくつかの理由をあげてそれらの要望にアメリカ側が答えないなら輸入は無理だと繰り返されるばかりでした。後日H社長から一度この人物に化粧品の品質、成分調査をしてもらったらどうだろうと紹介して頂いた化学者がのちにドクターピュアラボ化粧品を作り上げてくれた頑固で愛すべき安田盛政という人物でした。

化粧品会社の開発者として30数年仕事をこなし非常に信頼できる人物ということでした。しかし実際に本人に会うと滑舌が悪い上に化学式で化粧品について捲し立て、「午後からは一杯やってきまっ!」といなくなってしまいます。ある日の電話中にあまりの怒りで受話器を置きそうになりましたが、H社長の紹介だからこの人を切ってしまうと何もかも終わりだと怒りを飲み込んだ事も。安田はこの化粧品は輸入自体無理がある、どうしてもと言うのであれば日本の薬事に合ったものを作るしかないが成分の表示だけではどうにもならないと言いました。私はアメリカに再び戻り化粧品の秘密を合法的に手に入れ、それを見た時安田は初めて私に敬語を使って話してくれたのです。

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